ご注意
*社会人ザックスと(他の男の)人妻クラウドが、ボロアパートで出逢って恋におちる現パロです。年齢操作あり。
*クラウドが身体的、心理的、性的なDV被害にあっている描写がありますので、ご注意ください。
*エアリスはザックスの幼馴染。




この薄い壁のむこうで、
キミは今日も泣いている。

【前編】





カタカタと規則的な音をたてていたタイピングの音が止む。
代わりに聞こえてきたのは、壁を大きく叩く音。
これは、もはや毎晩のお約束といえる――「始まり」の合図だった。

こうなってはもう、仕事にならない。
今夜中に仕上げたい案件があったのにと、諦めの溜息をひとつ吐く。
パソコンからUSBを引き抜くと、スリープモードに切り替えた。愛用のモバイルパソコンをリュックに入れる。

財布と携帯電話をポケットにねじ込むと、ジャケットを手にとろうとして――少し迷ってから、アルパカのコートをハンガーから外した。
スニーカーに足を差し込みながら、早々に玄関の扉を開く。
ドアが閉まる直前――まるで逃げるザックスを追いかけるように、ドンドン、ドンドン、と更にけたたましく壁が叩かれた。
(やっぱり、始まった…か。)
11月とは思えぬ冷たい空気に身を縮こませながら、狭い廊下を歩き出す。

―――202号室。

隣室の前を通り過ぎようとして、けれど、一度歩みを止める。
室内からは「ガシャン!」と何かが割れるような音がして、今度は男の怒鳴り声が聞こえてくる。
これもやはり、日常のひとつだった。

「なんだその眼は、文句があるのか」
「不細工なツラしやがって」
「金がないなら体を売って稼いでこい」

要は、そういった野次罵倒。
けれど、それはもっともっと下劣で、醜悪な表現――品性の欠片もないコトバの暴力だった。
一方で、どれだけ耳を澄ませてみても、それに対する反応は皆無。
この狭い部屋の中に、男の他に、本当に誰かがいるのだろうか?そう怪しむほどに、男以外の気配はない。

けれど、何かを叩く音――誰かを叩く音がする。たしかに、誰かがこの男に殴られているのだ。





今のご時世、人様の揉め事≠ノ口を挟むべきじゃない。
それは重々承知している。
けれどやっぱり、そのまま部屋の前を通り過ぎることは出来なくて、インターホンを押していた。
(鳴らねえ…って。本当、ボロすぎんだろ。このアパート。)
数回押しても、沈黙したままのインターホン。
そういえばザックスの部屋である201号室のインターホンも…自分で押したことがないから気付かなかったけれど、壊れているのかもしれない。
何度か宅配便が訪れた際、ベルを使わずにドアをノックされたことを思い出したからだ。

インターホンが使えぬならば、ドアを叩くべきか。それとも通報すべきだろうか。
どちらにしても、「隣人」という立場であるザックスの心象は悪くなり、下手をすれば逆恨みや嫌がらせを受ける可能性も考えられる。
(でも…やっぱり。女が殴られてんのに、見ないふりはないよな。)
職業柄、このような相談を受けることはよくある。
そのような時、金銭的なリターンが全く期待できない相手であっても、無碍にすることは出来なかった。
ようは、性分なのだ。正義を振りかざすつもりは毛頭ないけれど、弱い者イジメは許せない。
学生時代から、いや物心ついたときからもう、それは譲れぬ性分だったと思う。

すっかり錆びついたドアを叩こうとした時。
男の罵声や、ものに当たるような音が突如として止む――
代わりに、男の荒い息遣いや、古い床が規則的に軋む音が聞こえる。
(駄目な男の典型…ってやつか。)
身体的虐待や心理的虐待で相手を手酷く傷付けた後、まるで人が変わったように優しくなる男。
もうこんなことはしないと、必死に縋られてしまえば、女性側はそれを誠意ととらえて許してしまうのだ。
けれどそんな約束は簡単に破られる。暴力は終わらない。

可哀想だな、と思った。
この202号室の男女が夫婦関係にあるのか、恋人同士なのかは知らない。
顔を合わせたことがないどころか、声さえも聞き取ることは出来ないから、どれぐらいの年齢なのかもわからない。
けれど、顔も声も知らぬその女性は、この男と付き合っている限り不幸の中にいるのだろう。
それは他人であるザックスが、どうこう言えることじゃないけれど。

ザックスはドアに添えていた手をまたポケットに戻すと、赤茶色に変色した鉄筋の階段を下りて行った。
風は、頬を斬るように冷たい。
(明日からは…コートじゃなくてダウンかな。)
間違いなく、今夜のようなことは繰り返されるだろう。
早ければ明日の夜には、またこうして駅前のカフェへと、寒空の中移動しなければならない。
わずか半年ばかりの期間限定とはいえ、酷いアパートに移り住んでしまったものだ。
ふと玄関にカギをかけていないことに気付いたけれど、まあいいかと引き返すことはしなかった。
仕事のデータも、金も、貴重品も、何も部屋には置いていない。
そもそも、あんな今にも崩れ落ちてしまいそうな古いアパートに、強盗に入る悪趣味な輩などいるはずがないのだ。





**********


六室あるアパートメントは、201号室と202号室の二部屋しか使われていない。
長く建て替えが行われなかった古アパートは耐震強度にも問題があり、そして需要もほとんどない。
来年春には取り壊し、私営の駐車場になることが決まっている格安物件だった。
現在、事務所兼自宅のビルを建築中であるザックスは、半年間限定のねぐら≠ニしてここを選んだ。
オーナーが懇意にしている顧客の一人であったこと、そして駅から徒歩5分という好立地であったためだ。

築38年の1K、家賃は3万5千円。
都心の駅近でありながら格安であるのは、幽霊が出るとか隣が墓地であるとか、そんな事情は全くなくて…
ただ単純に「ボロすぎる」から。
とくに問題なのは、壁が極めて薄いこと。隣室の生活音が駄々漏れなのだ。
オーナーは他の部屋でもいいと言ってくれたが、二階の真ん中である202号室にはすでに居住者がいるため、左右201号室、203号室どちらを選んでも同じこと。
一階はネズミが発生したことがあると聞き、また一応防犯上の観点から選択肢から外した。
結局は、二階の一番奥の南東角部屋。日当たりが最も良好な201号室に決めたのだ。

実のところは、もう少しまともなマンションに入居することも、あるいはホテル住まいでも経済的には可能だった。
引っ越してきた初日は、あまり住まいにこだわりのないザックスであっても、さすがにこのアパートの住み心地の悪さには衝撃を受けたものだ。
老朽化した外観、僅か1Kという間取り、狭いユニットバス、そして何よりも薄い壁。
隣人の男は酒乱なのか精神的な病を患っているのかは知らないが、程度を超えた生活音や怒鳴り声がとにかく煩い。
オーナーには失礼のないよう話をして、やはりホテルに移ろう――当初はそう思っていたのだ。だから引っ越してきて数日たった今でも、隣人に粗品を持参したうえでの挨拶をしていない。
けれど、どうも踏みとどまってしまうのは…それはザックスの性分故だった。
202号室という他人の部屋で、毎晩のように繰り返される暴力行為を知ってしまった今、ここを去るのはまるで自分が被害者を見捨てるような気がして。
友人にも同僚にも、「おせっかい」だとよく呆れられるこの性分は、どうしても気になってしまうのだ。

何か自分が出来ることはないのか。
いつもぐるぐると答えの出ないことを考えながら、こうして今夜も、駅前のカフェへ仕事を持ち込むのである。





DV――
ドメスティックバイオレンスという言葉が、誰でも知る身近なものになったのは、ここ近年でのことだと思う。
配偶者、あるいは内縁関係や恋人関係にある相手への「家庭内暴力」。それは身体的虐待だけでなく、心理的な威迫や社会的隔離など、その種類や形態は様々だ。かつては「身内の恥」として隠匿される体質にあったDVが、時代の変化により、徐々に表面化し問題視されるようになった。

DVをふるう男は、一見「そう見えない」タイプが多い。外面がよく、愛想もよく、社交的で、男性的な魅力がある。
よく言われるその一説通り、一度だけ…階段を降りていく男の横顔を見たことがあるけれど、たしかに好青年といった風な風貌だった。
相手の女性は、何故虐げられながらも一緒にいたいと願うのだろう。
それは愛情以上に、互いへの「依存」に近い情がしがらみになっているのだと思うのだけれど、
基本ひとにもモノにも執着をしないザックスとしては、理解はしているのだけれど共感は難しいところだ。




軽食のサンドイッチと、コーヒーを2杯。3杯目を頼もうとして席を立ったとき、腕時計に目をやると閉店もまもなくの時間だった。
大学生風の男性店員が、床掃除を始めている。気付けば客は自分を残すだけになっていて、これ以上は迷惑になるかとそのままコートを手にとった。
カウンターに寄り、テイクアウトでコーヒーを注文する。チェーン店のカフェの中では、ザックスはここのコーヒーが一番気に入っている。
「あ、あの…私!」
レジにいた若い女性店員が、コーヒーと小さなメモをザックスに差し出してくる。
「遅い時間までごめんね。いつもありがとう。」
そのメモと、彼女の気持ちには気付かないふりをして、コーヒーだけを笑顔で受け取るとそのまま店をあとにした。

実のところザックスは、自分に向けられる女性の好意というものに対して聡い方だ。
だからこそ、こういう場面では鈍い「ふり」をして知らん顔をする。
今は、仕事をが忙しい。彼女を相手にするには若すぎるし、面食いであるザックスの眼鏡に叶っていないというのが本音だった。
下手につまみ食いをして、気まずい関係になりこのカフェに通えなくなるのは困る――きっとこれからも、あのアパートから抜け出してお世話になるだろうから。

控えめに流れる音楽、人々の適度なざわめき。食器を片付ける音や、コーヒーの香り。
それらはザックスにとって心地よいもので、カフェという場所は、仕事の能率をあげるにはとてもいい環境だった。
今夜も、予定していた案件は無事終息だ。
カフェに居たおよそ2時間あまりの成果に満足して、アパートへの帰路をゆっくりと歩けば、微かに頬に感じる氷の粒。
(まだ11月だってのに…初雪か。)
たしかニュースで、都心では54年ぶりに11月の積雪になるだろうと言っていた。
寒いのは苦手だった。あんな薄い木造の、隙間風だらけの部屋ではさぞ居心地が悪いだろう。
早急に小さなコタツを購入しようと心に決めながら、片手にコーヒー、片手はポケットに突っ込んだまま、鉄筋の錆びついた階段をあがっていく。


カン、カン、カン… カン………


階段を上がりきったところで、思わず足を止めたのは。
部屋の前に、誰かがしゃがみ込んでいたからだ。部屋――それはザックスの201号室ではなく、その手前の202号室。
顔を伏せたまま、両足を抱きしめるように蹲っている。
気温零度の夜とは思えない、薄手のカットソーにGパンという軽装だった。
珍しい金の髪はショートカットで、その肩も腕もとても華奢だ。服装や髪型だけでの判断は難しいけれど、おそらくは少女だろうか。

ただ、いやに不自然で、不釣り合いに思えた。
その古びたアパートの、点滅した老灯に照らされて。それでも美しく煌めいている金色の髪。
それがあまりに背景と違和感があって、まるでザックスだけに見える幻のようにさえ思える。

「………こんばんは。」

声をかけるべきなのか。声をかけるとして、なんとかけるべきなのか。わからないまま、隣人として当たり障りのない挨拶を口にした。
相手はびくり、と肩を揺らしたけれど、顔をあげてはくれない。これは関わらないでほしい、ということだろうか。
ポケットを探り、鍵を探すふりをした。本当は玄関の施錠はしていないから、そんなものは必要ない。
けれど、どうしてか時間を稼いでしまう自分――
その間に、他に何か言うべき言葉はないか、してやれることはないかと考えていた。

「雪、降りそうだし。そんな薄着だと、風邪ひくんじゃ…」
余計なお世話、わかっているのについ口にしてしまった。
この子が隣に住む男の「相手」であるならば、きっと何か事情があって、寒空の中しゃがみ込んでいるのだろう。
部屋の中に入れない理由――喧嘩をしたのか、締め出されたのか。
部屋の中は明かりがついているのだから、男は在宅だ。鍵を失くして入れないということはない。
ここにこの子がこうしているのは、他人は踏み込むべきでない事情がある。きっと詮索すべきじゃない。

案の定、何も返事はなかった。沈黙したまま、顔さえもあげてくれない。
「もう遅い時間だし…女の子がここに独りでいるのは、危ないと思いますよ。部屋に入れないなら、俺から彼に話しましょうか。」
悪い癖が出てしまった、と我ながら自覚した。いつものおせっかいというやつだ。
けれど、こんな時間に、こんな季節に。大切な恋人(夫婦かもしれないが)を外に締め出して、部屋の中の主は何も思わないのだろうか。
やはり知らん顔など出来なくて、踏み込みすぎた提案をしていた。

「アンタに関係ない。放っといて。」

想像していたような、弱々しい少女の声ではなかった。
否、そう思われないように虚勢を張るような、不自然な力強ささえ感じる。
「関係なくは…ないんじゃない。いちおう、お隣さんだし。」
「他人だろ。」
「他人よりは近いでしょ。放っておけないよ。女の子だし。」
そこでようやく、相手は顔をあげた。
老灯の下で視認した彼女は、思った以上に若い。
年の頃はまだ少女。どう見ても成人はしていない。
小さな顔に、大きな瞳。白く美しい肌―――だからこそより痛々しく思えてならない、左の眼元や口元にある複数の痣。
…女の子相手に、何て仕打ちを。

「女じゃない。俺は男だ。」
「え、そうなの?ごめん。」
顔の大部分に痣が広がり、眼元も腫れていて、本来の造形がいまいちわからない。
ただ、体つきの線が細く、フェイスラインの骨格は間違いなく美しいので、女性のように思えたのだ。
まあ本人が男だというならそうなのだろう。
「でも、男だったら殴っていいわけじゃないだろ。」
数時間前だけじゃない、ここに引っ越してからおよそ一週間ほどだが、毎晩のように繰り返されている暴力。
その相手がこの子であるということ、それにザックスは確信を持った。

「――何も知らないくせに。」
浅はかな偽善だと嘲笑うように、少年は口元を歪ませた。
笑ったつもりなのだろうが、それは失敗しているとしか言いようがない。下手くそな笑みだった。

「全部、全部俺が悪いんだ。あの人は何もしていない。本当は、すごく優しいひとなんだ。」
「優しいって……、」
優しいひとが、こんな華奢な少年を殴れるか。上着も来ていない姿で、寒空の下に放り出せるものか。
典型的なDV被害者の台詞に、ザックスは頭が痛くなったけれど、結局もう言い返すことはしなかった。
助けを望む相手には、手を差し伸べることが出来る。その想いも知識も、ザックスにはある。
けれど、当人がそれを望んでいないのならば、これ以上の会話は意味がない。


「さっさと、消えて。」


少年は冷たく言い捨てると、再び顔を伏せてしまった。また膝を抱くようにして、微動だにしない。
「………ああ、そうかよ。」
他人を信用していないこの少年は、ザックスの善意をなんだと思っているのだろう。
せっかく心配しているのに、助けになりたいと思っているのに。
初めて会ったとはいえ、こんな風に攻撃的で排他的な態度をとる少年は、しょせん何かが欠落しているのかもしれない。
大切な何か――心が、欠落しているのだ。
だから、変な男に捕らわれる。結局のところ「似合いのカップル」なのだろう。
「じゃあもう、何も言わねえよ。せっかく心配してやったのに…馬鹿馬鹿しい。」
傷んだドアを開くと、ギイと軋んだ嫌な音がした。まるで自分の言葉のように、不愉快で歪んだ音だ。

優しさなんてものは、見返りを求めるべきじゃない。ただ与えるものであるべきだ。
感謝も肯定もいらないはず。そう思うと、いったい馬鹿はどっちだろうと情けなくなる。



「……まだ、あったかいから。それ――飲めば。」



少年の足元に、紙袋に入ったままのコーヒーを置くと、今度こそ自室の玄関へと入っていく。
ドアはもう、軋んだ音はしなかった。





*********



カン、カン、カン……カンッ!
「あっぶねえ、」
天気予報の通り、翌日は雪になった。
積雪の絨毯に足跡を増やしながら、大きなダンボールを抱えて、まるで宅配業者のように狭い階段をあがっていく。
滑りやすくなっている足元に、思わずよろめかけてしまった。

やはり、配送をお願いすればよかったかもしれない。
両手に抱えたダンボールの中身――さっそく購入した「コタツ」の重量に、少し後悔する。
今夜からすぐに使いたくて、配送を断り自分で運ぶことにしたのだ。小さなサイズだからとタカをくくっていたが、思った以上に体力を使う。
けれど、今夜はこのコタツに入りながら、ひとり鍋をする予定。明日は久しぶりの休日だから、お気に入りのビールも楽しめる。
昨夜のような騒ぎがありませんように…と、今夜の平穏を祈りながら自室の前までやってくると、
ドアノブにかけられた小さな袋に気付いた。

袋の中を確認すれば、それは手作りクッキーだった。
少し歪なクリスマスツリー、不細工なサンタクロース。角のないトナカイ、花なのか星なのかよくわからないもの。
料理は得意だけれど菓子作りの経験がないザックスは、クッキー作りがどれだけの難易度かは知らないけれど、
少なくともこれを作った誰かは結構な不器用レベルだと思う。
いったい誰からだと、ビニール袋の中を漁ってみるけれども、メッセージカードも差出人も書かれていない。

(怪しいっちゃあ、怪しいけど…、でもなんか、必死さが伝わってくるっていうか。可愛いよなあ。)
差出人もわからぬ、手作りクッキー。妖しいことこのうえないが、どう考えてもこの不器用さで悪意は感じられない。
――ので、思わずひとつかじっていた。

「おお、すっげー美味いなこれ…」

卵と牛乳の味…淡泊といえばそうかもしれないが、
素材本来の自然の甘みは、甘いものを苦手とするザックスには逆に理想的だった。
ほろほろと口内で砕けていく食感もいい。
このクッキーは誰が作ったものなのか。その送り主に、ある程度の予想はついていたのだ。
実家の母ではない。彼女は料理が苦手で、夫に家事を任せきりのくせに、あれが食べたいこれが食べたいと子どものように我儘をいうひとなのだ。
そうだとすれば、あと思い当たるのは一人だけ――






『え?私、クッキーなんて持っていってないよ?』
電話越しに聞こえてきたあっけらかんとした答えに、ザックスは肩透かしをくらった。
「ちょ…マジで?俺もう、全部食っちゃったんだけど。」
『もう、ザックスって本当、警戒心なさすぎ!拾い喰いする子犬と同じじゃない。』
「だって、俺んちのドアにかかってたんだぜ?警戒しないだろ普通!」
『するでしょ!なんか毒とか入ってたらどうするの!……まあ、もう手遅れよね。ザックス、すごく優しくていい子だったのに…』

電話の相手―――幼馴染のエアリス相手に、ザックスは見えないだろうけども大きく肩を落した。
「生きてるし!まだめっちゃ生きてるし!」
電話の向こうで、エアリスは『冗談だってば』とマイペースに笑っている。
『カードが入ってない…ってことは、ザックスに想いを寄せてるけど告白できない、そういういじらしい誰かじゃない?』
心当たりはないの?そう問われて、ふと思いつくのはカフェの若いアルバイト店員の女の子。
それか、ゴミ捨てのときに挨拶した主婦軍団の誰かか…。
そういえば、ご近所の主婦の皆様からの受けは頗る良い。
かっこいい、イケメン、目の保養、鍛えてるのすごくいいカラダね!ところで独身?!と、マダムたちからさんざん騒がれてしまい…正直、燃えるゴミの日の水曜と土曜は、朝から結構しんどいのだ。

「まあいいや。美味かったから。」
『ザックス、私が作ったお菓子は食べてくれないのになあ。ちょっと悔しい。甘いお菓子、嫌いじゃなかったの?』
「だって、エアリスが作るのって、なんかオシャレすぎんだもん。男はもっと素朴な味が好きなもんだぜ。」
『なによ、もう。ザックスなんて、近所の奥様たちに腹筋なでくりまわされて悦んでればいいんですよーだ。』
「エアリス、そうやって俺の傷を抉るのやめて!」

エアリスは、ひとつ下の幼馴染だ。
絶世の美少女≠ニ形容するに相応しい彼女に対して、思春期の頃はそれこそ、恋愛感情に似た甘酸っぱい気持ちを抱いたこともあったけれど…
恋人関係になることは決してなかった。そして、これからもない。
周囲は、親さえも、二人はいずれ結婚するだろうと期待しているようだけれど、
当人たちだけはそれが有り得ない未来であることを知っている。理由は明白で、単純だ。
彼女のことは本当に大切で大好きだけれど、肉欲を感じたことが一度もないのだ。
恋愛や結婚は、どんな理想や綺麗ごとを並べ立てても、セックスパートナーであることは間違いない。
互いにそれを求めていないのだから、二人は永遠に、最愛の幼馴染なんだろう。

『ところで、お隣さんに挨拶はしたの?』
「まだ、」
『そういうのは、すぐ行かなきゃ駄目。そうだ、何か日持ちするお菓子、私が買っていこうか?』
「いや、今日デパートで買ってきたよ。ただ、渡しに行くタイミングがなぁ…」
『まだそんなに遅い時間じゃないよ?今から行ったら?』
「いや、たぶんこれからお隣さん…」

ドン!!

壁を大きく叩く音、いつもの合図――
それを素早く理解したザックスは、慌てて「また電話するわ!」と誤魔化しながら通話を切った。
エアリスを心配させたくなかったのと。これから隣室で行われるだろう暴力を想像すると、とてもじゃないが談笑する気にはなれなかったのだ。

ドン!ドン!ドン!ガタン!!

いったいどんな暴れ方をしているのだろう。
これは、ただものに当たっているだけじゃない。直接殴る蹴るといった暴力行為に及んでいることは、昨夜少年の顔に残った痣が証明している。
昨夜のように、財布と携帯電話をポケットにねじ込もうとして…結局、カフェに逃げる気にはなれなかった。
虐げられている相手の顔を知ってしまった今、彼と会話をしてしまった今、これを他人事として脳が処理することは出来なかったのだ。
あんなに華奢な少年を、きっと無抵抗の相手を、こうもいたぶることが出来るなんて――

あの後、少年はどれだけの間、外に締め出されていたのだろう。
少し経ってからそっと玄関穴を覗いたけれど、その時にはもうあの子の姿はなかった。だから仲直りできたのだと多少は安心していたのだ。
けれど結局、またこうして暴力は繰り返される。

コートを着ないまま、スニーカーをひっかけて玄関を飛び出していた。
そうしてそのまま、202号室のドアを叩く。一度会っただけ、それだけなのに、昨夜とは違ってもう迷う理由はないように感じた。
「ごめんください!お隣の者ですけど!!」
ドアの外から声をかけると、室内の罵声や物音はぴたりと止んだ。そうしてしばらく奇妙な沈黙――
まさかこれだけの物音をたてておいて、居留守を決め込む気なのだろうか。
「引っ越しのご挨拶に参りました!」
さらに声を張り上げると、観念したようにガチャリと施錠をあける音が聞こえる。
二重にチェーンロックをかけているらしく、ドアは数センチしか開かない。

「こんばんは。ご挨拶が遅くなってすみません。1週間前、隣に引っ越してきたんですが…」
「わざわざ、ご丁寧にありがとうございます。」
にこりとザックスにむかって笑む表情は、清潔感のある短髪の好青年といった風で、とてもじゃないけれどつい先ほどまで暴れていた人物と同一だとは思えない。
けれど、隙間から微かに見える室内――それは酷く散らかっていて、異常さを感じるには十分だった。
「これ、つまらないものですが。和菓子です。」
そう言って差し出した和菓子の箱を、男はしばらく考えるようにして見つめている。
けれど他に方法はなく、内側からチェーンロックを外して再度扉をあけた。
「嬉しいなあ、俺、甘いものには目がないんですよ。」
作り笑いをする、その男の向こう側――狭い1Kの部屋の中がかすかに見えて、ザックスは息を呑んだ。

目が、あった気がした。
薄暗く、空き巣にあったように散らかった室内で。
服を引き裂かれたのか、酷く乱れた身なりをしたあの子が、こちらから身を隠すように蹲ったのだ。

後ろめたい全てを隠すように、男は早々に扉を閉めようとした。
そこにわざと足を挟ませて――さも事故であるというように――そうして何も知らないふりをして会話を続ける。
「ところで、毎晩気になっているんですが。このアパート、騒がしくないですか?」
「……と、いいますと?」
「男が暴れてるような音がするんですよ。他に誰か、住んでるのかな。」
「そうかも、しれませんね。」
「何か困ったことがあれば、いつでも相談してください。実は俺――」
名刺を菓子箱の紐に挟み込む。これが、少しでも牽制になればいいのだけれど、



「弁護士なんです。」



男は明らかに顔色を変えた。心細そうに目を泳がせて、今度こそドアを閉めた。
部屋に戻った後も、ザックスは隣の気配を注意深く窺っていた。
あと一度でも派手な音が聞こえれば、今度こそ助けに入ろうと思ったのだ。
とてもじゃないけれど、あんな生活があの子の幸せだとは思えなかったから。

けれど、もう暴力をふるう様な気配はない。
代わりに聞こえてきたのは…昨夜と同じように、肉欲に高ぶる男の息遣い。そして、床が軋む音。
ザックスの部屋の壁までもが、ガタガタと揺れる。
この薄い壁に押さえつけられて――あの子は、あの男に抱かれている。

言いようのない不快感に、今度こそダウンコートをつかむと、鉄筋の階段をかけ降りる。
水気を多く含んだ都会の雪は、びちゃりと髪や肌を濡らしたけれど、傘をとりに戻ることはなかった。
あの男があの子を傷つけているならば、立ち向かう覚悟はある。
けれどあの男があの子を抱いている事実――それだけはどうしたって、受け入れることが出来なかったのだ。





*********

常連となったカフェで、3時間あまり過ごした。
仕事用のモバイルパソコンを持っていかなかったから、何か作業をするでもなく。
ただ、あの少年のことばかり考えていた。
目が合った時――恐い≠ニその瞳がいっていた。
少年が恐れているのは、男に対してだろうか、それとも第三者であるザックスに対してだろうか。
もし、あの子がザックスに助けを求めてくれたなら。きっと、いや必ず助けになってやれるのに。

カン、カン、カン…

昨夜のように、古びた鉄筋の階段をあがっていく。
あれから数時間――あの子は、どうしているだろう。

「……こ、んばんは。」

動揺するあまり、声がうわずってしまった。階段を上りきると、まるで昨夜のデジャブのように。
少年が同じ場所で、蹲っていたからだ。
反応も同じ。顔をあげようともしない。放っておいてほしいということなのだろう。
けれど、そうはいかなかった。

「なんつー、かっこしてんの。」
「………、」
「部屋の中に、さっきの彼氏いるんだろ?今度こそ、俺ががつんと言ってやる。」
「…………放っておいて。」
昨夜と同じように、強気に返そうとしたらしいその言葉は、けれど酷く弱々しかった。

「…………見ない、ふりして………」

見ないふりなんて、出来るわけがなかった。
少年の恰好は、昨夜よりもさらに酷い。
ところどころ破かれたシャツ一枚だけを羽織って、スラックスも靴も履いていない。
シャツで隠れてはいるけれど、下着を身につけているのかも怪しい。
アパートの小さい屋根は雪避けにはならず、廊下は薄く雪が積もっている。
こんな格好で、こんな場所にいたら――凍傷、もっと下手をすれば死んでしまう。

「悪いけど。今日はコーヒー持ってないんだ。」
「………。」
「だから、入って。」
「…………?」
「俺んち、入って。」
「――――え、」

本気で意味がわからないらしい。そろりと顔あげた少年は、顔を不安そうにかしげた。
口元は切れていて、新しく殴られたのか赤い痣が増えていた。昨夜見た痣は、紫色に変わっている。

「コタツ、買ったんだ。今夜鍋にするし、食べていったら。」
「何…言ってんの。出来るわけない、だろ。」
「出来るだろ。例えば俺が――おまえが言うこときかないなら、お隣の彼氏ぶん殴るって言ったら?」
「……!そんなの、やだ……っ」
「じゃあ、決まりだな。10秒以内に入って。」

ただ困惑するばかりの少年を、いささか強引に立たせるとそのまま自室に連れ込む。
よろめくように部屋に入ってきたその子は、所在無げに自身のシャツの裾を引っ張った。
隠そうとすれば、逆に注目してしまうもの。
長めのシャツからすらりと伸びる足はとても美しく、ザックスも思わずそれに目を奪われてしまったけれど、
けれど、小さな尻の谷間がちらりと見えて慌てて目を反らした。
やはり、不安は的中――この子は、シャツ一枚だけで何も着ていないのだ。

「………何、するつもり、」
声を震わせる少年は、強気な姿勢を保とうとするけれどやはりうまくいかない。
酷く体温が低下しているからか、それとも見ず知らずの男の部屋に連れ込まれてしまった事実に恐怖しているのか、綺麗な歯をガチガチと慣らすほどに震えあがっている。

「おまえは、とりあえず風呂だな。」
手の平と足先に、凍傷の兆候がないことを確認すると、狭いバスルームへと彼を押しやった。
もたもたと脱衣所で迷っている少年を横目に、風呂に湯を張って入浴剤をいれてやる。
「タオルと着替えは、後でここに置いとくから。ちゃんと肩まであったまって、出てくること。」
「……なんでそんなこと、」
「ちゃんとあったまってなかったら、またやり直しだかんな。」
「…………、」

強引にことを進めると、ザックスは脱衣所のカーテンを閉めて、すぐさまコタツの電源を入れる。
今日買ったばかりのコタツ――小さいけれど、二人ならば十分だろう。
手早く野菜をカットし、鳥肉を団子状にをこねて、小さな土鍋に火をかけた。
30分ほど――思っていたよりも長い時間をかけて風呂に入っていた少年は、ほとんど物音もたてずにカーテンの向こうから姿をみせる。
ザックスの用意した部屋着は(手持ちの衣服の中では小さいやつなのだが)だいぶ大きいらしく、スラックスの裾を幾重にもまくっている。
それが面白くないのか、それとも恥ずかしいのか、彼はザックスと目を合わせることなくつんと顎をそらした。

「髪、乾かさないと風邪ひくぞ。ドライヤー使ったら。」
「女じゃあるまいし…」
「本当おまえ、いうこと聞かねえやつだよな。いいよ、お兄さんがやってやる。」
「は?!そんなの頼んでない――」
腕の中から逃れようとする少年。けれど強引にドライヤーをかけ始めると、とたんに大人しくなった。
気持ちいいのだろうか。目を細めて、うとうとと膝を抱えたまま船をこぎ始める。まるで顎を擽られた子猫のように、今にも喉が鳴りそうだ。

「おい、まだ寝ちゃだめだぞ。これから鍋にすんだから。」
「……なべ?」
「おまえ、食えないもんある?」
「………」
「ほら、早くそっちのコタツ入って!肉団子は、一人ノルマ5個だかんな。」
「………」

正座の姿勢で控え目に座った少年は、しばらくは一人で喋る続けるザックスのことを茫然と見ていた。
「おまえ、未成年だよな?じゃあビールはお預け!ウーロン茶な。」
「………」
「そんな顔して欲しがっても無理!あげませーん。」
「………」
「シメはラーメン?米?どっちにする?やっぱ、この白湯鍋にはラーメンかなー」
「………ど、」
「やばい、俺天才かも!マジうまいんだけどこの肉団子!」
「………どうして、」
「おまえもさっさと食う!食わねえならアーンして食わせるぞ、俺はマジでやるぞ。」

漸くして、目の前の小皿に盛られた白菜を、美しく静かな咀嚼で飲み込むと。
青痣のせいか体調のせいか、病的に蒼白く思えてならなかったその顔色に、うっすらと赤味がさしていくように感じた。

「…どうして、俺ここにいるんだろう、」
「だって、コタツって二人で入るとあったかいじゃん?」
「どうして、俺、アンタと鍋囲んでるんだろう。」
「だって、やっぱ、鍋は二人で食べるとうまいじゃん?」
「どうして………」
優しくしてくれるの。
消えてしまいそうな小さな呟きは、けれど確かにザックスの耳へと届いた。



「俺、母ちゃん譲りでさ。おせっかいなんだ。」



鍋の湯気で、ゆらゆらと少年の輪郭が歪む。
ぐす、と鼻を鳴らす音がしたから、よく見えずとも彼がどんな顔をしているのかはわかってしまう。
「おせっかいついでにさ。鼻チーンしてやるよ。ほら、俺のティッシュで遠慮なくかみなさい!」
「ぶっ、馬鹿じゃない、」
ティッシュを鼻に押し付けてやろうと、距離を近づけたその拍子に。
湯気の向こうで、思わず笑みをこぼした少年の表情が、ザックスの目に飛び込んできた。




それは痣だらけで傷だらけで腫れていて、しかも鼻が垂れていて、とてもじゃないが直視できないような――
正確には、直視することが出来ないほどに、とてつもなく愛らしい微笑みだった。









(2016.11.27 C-brand/ MOCOCO)
バージンなクラウド大好きだけど、すでに他人のものであるクラウドもいい…という話。


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