あれから、一ヶ月が経った。
「ばいばい」と言われたあの時から。二人の間にできた、明らかな距離。
会話はいっさい、しなくなった。
一緒に食事を取ることもないし、リビングでテレビを見ることもない。
ときどき洗面所の廊下ですれ違うぐらい。そのときだって、クラウドは目を合わせようとしない。
…もう一ヶ月も、クラウドの笑顔を見ていない。
だからといって、ザックスをなじりもしないし、泣いて感情を表すこともない。
まるで、人形のように無表情だ。
彼の喜怒哀楽の全ては、ザックス自身の手で奪ってしまったのだけど。
どれだけ、一緒にいることが大事だったか――今になって、改めて気付く。
たとえ抱けなくとも。
その欲望と理性との間で、おかしくなりそうなほど苦悩しようとも。
クラウドの傍にいられるという、それだけのことが…どれだけ幸せだったか。
――つい一ヶ月前までは。
彼の隣にいることが、許されたのだ。
ザックスは、夜になれば女性のところへ行くけれど、それはクラウドが就寝してからで、
夕食はいつも二人で食べていた。
食事の後は、リビングのソファに並んで座って、テレビを見て。
すぐ隣に座る彼の距離に、内心ドキドキしながらも、その近さが嬉しかった。
まるでノミの心臓のような自分に呆れるけれど…でも、そんな自分が実は嫌いじゃなかった。
ザックスにとって、あまりに新鮮な想い――初恋といっても、いい。
いや、間違いなくそれは初恋だった。
あんな気持ちは初めてだった。
クラウドといるだけで、なぜか心がそわそわして、面白いぐらいにテンションがあがった。
二人でテレビを見ながら、たわいもない話をするのが好きだった。
別にどんな内容だっていい。くだらないことで、いつも二人笑っていた。
クラウドは犬が好きで、ザックスは猫が好きで。
動物番組を見ながら、どっちが可愛いかを言い争ったりして。
悪ふざけでザックスが犬のふりをして、彼に抱きついてみたりして。
それで当然殴られて、でもクラウドが呆れたように笑う―――
そんな、バカみたいに愛しい時間。
………別に、体だけが欲しかったわけじゃない。
クラウドが、欲しかったのだ。
彼の心ごと全部、好きだった。
好きだった。
好き、だったよ。
――あのときのクラウドの言葉が、耳の奥に張り付いたように消えない。
だから――ばいばい。
いったいどんな気持ちで、あんな風に笑ったのだろう。
ザックスの最低な行為に対して、一言だってなじることなく。
ただ悲しそうに、とても悲しそうに笑った。
なぜ、あんな顔をするのか。
……もしかして。
自分は、何か大きなことを、見逃してきたのではないか。
クラウドの持つ心は、友愛ではなくって。ひょっとすると――
そう思うのは、失ったものへの愚かな感傷かもしれないけれど。
それでも。
まだ、諦めきれない自分がいる。
「……クラ、おかえり。夕飯、くう?」
「今日は、いらない。外で食べた。」
今日は≠ナはない。クラウドは部屋で一切、食事をしなくなった。
もうザックスの作るものを食べてくれない。
そうわかっていても、ザックスはどうしても二人分作ってしまう。
「クラの好きなシチュー、作ったんだけど。」
機嫌をとるように、気をひくように彼の顔色を伺う自分が、あまりに滑稽と知っていても。
「そういう風に、呼ばないでくれる?」
「え?」
「クラって、呼ばないでほしい。」
クラウドの顔を見ると、その目は失望に満ちていた。
「…………。」
ザックスは、言葉が発せられない。
クラウドが、どこまでも遠くにいってしまったと。――その事実を打ちのめされた気がして。
「クラ……クラ、ウド。」
いったい何なのだろう、このすがるような気持ちは。
「いやだ!」
彼に手をのばそうとした瞬間、クラウドが思い切り後ろにひく。
そのあからさまな拒絶に、ザックスは眩暈がする思いだった。
…あの頃に戻れるなら、どんなことだってする。
機嫌をとることだって、土下座をすることだって。
だけどそんなことをしても、もうクラウドを取り戻せない――
クラウドがザックスの横を通り過ぎて、彼の寝室へと入っていく。
その体は、あまりに細く、儚く見えた。
彼は、こんなに痩せていただろうか。
「クラ、ウド。オマエ…飯、食ってんのか?」
「ザックスには関係ない。」
そう――クラウドにそう言われるのは、当然なのだ。
彼の人生には、もはやザックスはいない。
もう、取り戻せはしない。
ガチャリと、内側から鍵をかける音が、やけに大きく響いた。
3月14日、ホワイトデー。
女の子から貰ったバレンタインのチョコレートの礼に、男たちは苦悩する。
ザックスも、バレンタインではたくさんのチョコレートを貰った。
だが一人一人にお返しをするほど、ザックスはその女の子たちに興味もなかったし、
正直誰から貰ったかも曖昧だった。
ただ顔を合わせたときに得意の笑顔でお礼を言うなり、適当な愛の言葉でも付けてあげればいい。
ザックスが、誰に対しても本気にならないというのは、彼に想いを寄せる女性達はたいてい知っていた。
いつだって笑顔で人を受け入れるけど、誰にも執着はしないこと。
そこに愛はないこと、誰のモノにもならないこと。
――正確には、すでにザックスの心は『誰かのモノ』であったこと。
「かわいい」「すき」という言葉は挨拶に近いほど容易に口にするし、その言葉に嘘はない。
でも、「愛してる」という言葉は、ザックスは一度だって女の子に口にしたことはなかった。
その言葉を、喉が嗄れるまで叫びたい相手は、たった一人しかいないから。
そしてその子には、一生言える日などこないと知っていた。
それでもザックスは、異様なほどに女性にモテた。
自分のものに決してならない、その掴めない存在が、女性達の物欲を刺激するのかもしれない。
「自分が一番」だと実感したい女性たちは、イベント時には余計に約束を付けたがる。
ホワイトデーの数週間前から、ザックスの携帯には幾人もの女性から、誘いがかかってきていた。
その中から適当な子と、当日のデートの約束をする。
ザックスからすれば、別に誰でもよかった。
少しでも、彼の面影があればそれでいい。
彼とのセックスを、ただ想像できればそれで。
――二度と彼を抱けないし、触れることすら叶わないのだから。
ホワイトデー当日。
彼女は多くのガールフレンドの中でも、とりわけ美人な子だった。
それなりにいいレストランテで食事をして、彼女がパスタを食べる姿を無感情に眺める。
目の前の子は、たいして楽しくもない会話でよく笑い、オーバーすぎる反応をしてくれる。
胸が大きく開いたツイードワンピースを着て、赤く濡れたルージュ、これでもかという匂いの強い香水。
激しいボディタッチで、ザックスの気をひこうとしているのは明らかだった。
ザックスだって、この子と今夜寝るつもりなのだから、都合がいいわけなのだが。
…だけど、少しも楽しくない。
別に女の子とお喋りするのが目的ではないのだから、それはいいのだけど。
だが、少しも興奮できないのはどういうことか。
金髪で、色白で、華奢な女の子――
以前は、彼≠ニ似ていると思っていたけれど、少しもかすっていないことに気付く。
ただ、見目の色が似ているというだけで。
平たく言えば、つけているアクセサリーが似ていた、という程度の類似だ。
――クラウドだったら。
こんなオーバーアクションは、絶対にしないだろう。
彼は表情を出すのが苦手で、その不器用さが、ザックスはたまらなく好きだった。
ふとした瞬間の彼の微笑みが、とてつもない価値を生んでいた。
こんな風に、綺麗にパスタを食べたりもしない。
口の端にソースをつけて、それを舌でなめ取る仕草から、目が離せなかったのを覚えている。
胸もないし、赤いルージュも香水も、当然つけていない。
でも彼の真珠のような肌、さくら色の形のよい唇、そして何よりも甘い、甘い匂い。
彼の全てが、ザックスを刺激していた。
あんなに、誰かを欲することがあるのだろうか。
体を、心を――その存在ごと、愛しいと思うことが。
町中は、カップルが溢れかえっていた。
隣を歩く女の子は、ザックスの腕に自分のそれを絡めてくる。
それを少し不快に感じながらも、さすがに邪険にするのも失礼な気がして、そのままにさせた。
ホワイトデーのプレゼントに、と女の子がねだるバックを買ってやり、このままホテルかと思ったそのとき。
甘い匂いがして、ザックスは立ち止まった。
それは、ミッドガルの有名なお菓子屋――
クラウドが好きだと言った、チョコレートケーキの店だった。
ホワイトデーなだけに、その店はいつも以上に、人だかりが出来ていた。
その匂いに引き込まれるように、ザックスはふらりと店に近付く。
腕を組んでいる女の子は、怪訝な顔でザックスを見上げる。
彼女からすれば、お菓子よりもブランドバックやセックスの方が魅力的なのだろう。
だがザックスはおかまいなしに、その店に入ろうとする。そのとき。
トン。
金色と、ぶつかった。
お菓子の匂いじゃない。それよりも甘い、甘い匂い。
それは。―――クラウドだ。
クラウドが、小さな紙袋を手に、その店から出てきたのだ。
「クラ、ウド…」
「ザックス……」
お互いが驚いていたようで、しばらく呆然と見詰め合っていた。
「……それ、誰にあげんの?」
言うべきことはそんなことではない気がしたが、うまい言葉が出てこない。
とにかく一番気になっていたことが、口をついて出てしまった。
その大事そうに抱えている、紙袋の中身は、誰への贈り物なのか。
「ザックスには、関係ないだろ。」
予想通りの返事が返ってきて、ザックスの胸が痛む。
クラウドは、ザックスと親しげに腕を組む女性をちらりと見やって。
「…ザックスの、彼女?」
返事につまった。
彼女じゃない、というのがザックスの答えだが、はたしてそうはっきり言って隣の子が黙っているだろうか。
いや、それ以前に、クラウドに必死で否定するのが憚れたのかもしれない。
未練がましい情けなさを、露呈するのが恥ずかしくて。
「クラウドには、関係ないんじゃない?」
――しまった。
そんなこと、言うつもりは全くなかったのに。
思わず出た言葉は、自分でも引いてしまうほど、冷たく響いた。
クラウドのアイスブルーの目が揺れる。
「クラウド、いや、俺…、俺さ」
慌ててザックスがその場を取り繕うとしたとき、隣の女の子がザックスの腕を引っ張る。
「ちょっとザックス!早くホテルいこうよ!」
「は?ホテルってキミね…」
空気を読め!と心で叫ぶ。
もっとも、女の子からすれば、それは空気を呼んだ結果なのかもしれないが。
ザックスの、彼へのただならぬ想いを、女の勘は察知したのだろう。
デート中に、自分より明らかに壮絶美人な女の子(と彼女は思っているはず)が現れたのだから、
嫉妬を感じるのも当然かもしれない。
「…相変わらずだね。」
そう一言、クラウドはザックスに冷たい視線を送りながら言って、二人の横を通り過ぎた。
「クラウド!」
思わず大声で彼の名を呼んだけど、クラウドは絶対に振り向かなかった。
彼は、振り向かない。
だけど、ザックスは気付いてしまった。
――クラウドが、泣いていると。
気付いていたのに、追いかけることができなかった。
別に隣で腕を引く女の子に、気を遣ったわけではない。
ただ、臆病だったのだ。
もっと泣かせてしまうのが、恐かったから。
――そのとき追いかけてすがっていれば、どんなによかったかと。すぐに後悔するとは知らずに。
それは、突然だった。
クラウドが――――戦場に、行った。
ザックスが女の子とホテルに行ったその夜、ウータイに出兵したという。
朝になって自室に帰ってきたザックスは、その事実を隣室の兵士から聞いた。
ザックスもクラウドも軍属なのだから、戦場や任務に行くのは当然のことだ。
一般兵であるクラウドは、いくら階級が一等兵とはいえ、そんなに危険度の高いミッションには召集されない。
だが、ウータイは今、かなり戦況が悪いときいている――
言いようのない不安。恐怖……嫌な汗が流れる。
「大丈夫、だって」
誰に言うでもない、自分自身にそう言い聞かせて、自室の端末を立ち上げる。
震える手でパネルを操作して、そのミッション内容を確認する。
大丈夫、なはずだった。
なのに。
そこにあったのは――【Sランク】という信じがたい文字。
Sランク、それは。
生存率10%以下の、危険なミッション。
―――目の前が、真っ暗になった。
もはや、少しの光も見えないほどに。
もし、あのとき8番街でクラウドを引き止めていたら?
いや、それ以前に、醜い欲望に走ったりしなければ。
「もし」なんて仮定は、何の意味も持たないというのに。
ミッションの内容は、極秘扱いとなっていて、その詳細はいっさい公表されなかった。
ウータイのどこに行ったのか、戦況はどうなのか、いつ終わるのか。
ただ、恐ろしいことに――死亡者だけは、公表された。
毎日毎日オンラインで、すなわちリアルタイムで発表される戦死者の名前。
何もできぬまま、そのリストには次々と名前が追加されていく。
怯える日々が、数日続いた。
彼がいなくなってしまうことへの、恐怖。恐怖、恐怖――…。
全て悪い夢ならいいのに、と思う。
寝室のドアを開ければ、彼がいて。「ノックぐらいしろ」と以前のように膨れてみせて。
ご飯できたぞ、と声をかければ、機嫌を直してくれて。
だけど、クラウドの部屋のドアを開けてみても――
やっぱり、彼はいない。
クラウドの寝室は、綺麗に片付いていた。
それは、まるで「もう帰ってくるつもりはない」とでもいうかのように。
実際、クラウドはおそらく、最悪なことも覚悟して出兵したはずだった。
それが、嫌というほどにわかってしまう。
不自然なほど、机の上も片付いていたし、ベッドの上はシーツの乱れすらなかったから。
……どうしようもなく、恐かった。
この生活観のない部屋が、クラウドの生還を否定するかのようで。
誰でもいいから、クラウドを助けてほしい。
いや、もしできるなら自分が。
今すぐ飛んでいって、彼に襲い掛かる全ての痛みを代わりに受けてあげたい。
彼を、守りたい――この命に代えても、守ってあげたいのに。
狂いそうなほど――彼の無事を祈る日々が、続いた。
実際には、4日程度しか経っていないのだが、ザックスにはそれが永遠のように感じた。
ただひたすら、死亡者の報告リストを確認し続けて。
おそらくそのリストに、「彼」の名前を見つけてしまったら、その場で頭を打ち抜いて死んだと思う。
それほど、もはや彼の生死以外、見えなかった。
バタン。
(え?)
それは、5日目の深夜のことだった。
クラウドが、帰還した――まるで、何事もなかったかのように。
少し金髪がくすんでいて、軍服が土で汚れていたけれど、たいした怪我も見られず。
リビングに続く廊下で、慌てて起きてきたザックスとすれ違うが、彼は一言も発さない。
一瞬、目があったのに、そのまま視線をそらす。
まるで、5日前の延長戦だ。
クラウドはそのまま、シャワールームへ入ろうとする。
「おい!!!!」
ザックスは、思わず叫んだ。
クラウドは、そのザックスのただならぬ怒鳴り声に、びくりと肩を揺らす。
「…なに。」
立ち止まるがこちらを向かず、抑揚のない声で返すクラウド。
「なに、じゃねえよ。オマエ、帰ってきて一言もなしかよ。」
いったいこの5日間、自分がどんな思いで過ごしてきたか。
どれだけおかしくなりそうだったか――彼は少しでもわかっているのか?
「ただいま、とでも言えばいいのか?…くだらない。」
「そうじゃねえよ!なんだよオマエ、何事もなかったみたいに帰ってきて。」
クラウドが死ぬかと怯えた。
クラウドが死んだら、すぐに後を追うつもりだった。
どれだけ、どれだけ狂いそうだったか。
「いっそ、死ねばよかったって?」
クラウドが振り返って、冷たい眼差しで言う。
その言葉に、頭がかっとなって、何か抑えていたものが爆発するような気がした。
ドン!!
「いた…ッ!」
クラウドの胸倉をつかみ、その勢いで壁に押しやる。
少しの加減もなく押さえ込んだから、クラウの細い背中は壁に激突し痛みを訴えていた。
「ふざけんな、ザックス!痛いだろ!」
「…………かった。」
「は?!なんだよ、文句あんのかよ?!」
「………生きてて、良かった…………。」
「え…?」
クラウドが、息を呑む。
そのまま、ザックスはクラウドの肩に顔を押し付けて、微動だにしない。
いや、できなかったのだ。
「ザックス、なんで?」
「………。」
「なんで、泣いてんの?」
そんなの、わからない――。
ただクラウドが生きて帰ってきたことが、あまりに嬉しくて。
彼が生きている、ただそれだけで。
それが全てと言っていいほどに、溢れ出る涙が、止まらない。
溢れ出る想いが、止まらない。
クラウドの手が、遠慮がちにザックスの黒髪を撫でる。
その手の優しさに、ますます愛しさが募って。
ザックスは、漏れる声を我慢できずに、泣き続けた。
「なんで、泣くの…もう泣くなよ。俺が、泣かしてるみたいじゃんか…」
そう言いながら、クラウドの声も震えてくる。
「だって、すき、だから…」
「え?」
ずっと口に出すのが恐かった言葉。
今は考えるより先に、出てしまった。
「オマエを、愛してるから。」
守りたい、汚したい―――でも、やっぱり守りたい。
この気持ちをきっと、愛≠ニ呼ぶはずだから。
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