―――『悪意の棲みか』 ヨハン・ドーマク著 より
いつのことだっただろう。まだ村のスクールに通っていた頃だったか、
一度地主の長男であるニック・マルコーと取っ組み合いの喧嘩をしたことがあった。
「クラウド、おまえの母ちゃんは魔女だろう!うちの母ちゃんが言ってたぞ。」
「なんだと!もう一回言ってみろ!」
「だって、おかしいじゃないか。村の女と全然違うだろ!ケッコンしてて、シュッサンしてて、
あんなに綺麗なわけがない、おまえの母ちゃんは魔女だ!みんなそう言ってるぜ!」
その時はまだ、ニックとクラウドの体格差はそれほどなかったし、しょせんは子供の喧嘩。
スクールの先生が止めに入って、大きなコブを2.3個作って終わっただけだった。
家に帰ってから母親に怪我のことを問いただされ、喧嘩した内容を口にすれば
いつも柔らかく笑っているクラウドの母は、一瞬表情を強張らせた。
すぐに「ヤンチャな子ね」と言って、笑顔を作ったけれど。
今思えば――そのとき母は、恐ろしかったのだ。
魔女、と呼ばれることが。
「なんだよ、お前…なんで、んな風に泣くんだよ…」
「ザック、ス……に、あいたい…」
「会わせるわけねえだろ。お前はここで、死ぬんだよ。」
「じゃあ、つ、た…て、」
「伝えて?何を」
「ごめん、って」
「え?」
「…おかゆ、だめにしちゃった、って」
「粥?」
赤毛の男は、再びライターの火を灯し、辺りを照らす
床に散らばる白い粥のようなもの、それに割れた土鍋…
男はそれを確認した後で、クラウド自身に明かりを戻す。
「………その、ドッグタグ、」
クラウドの首にかかる、ザックスの物であるはずのドッグタグ。
それに気付いた男は半歩後ずさったが、すぐにまた声を低くした。
「いや、そんなわけない。あいつが人間を許すわけがない…お前はザックスの敵だ。」
「うあっ…!!いっ、た…」
ほとんど引き裂かれ、慰め程度に巻きついている衣服。
半裸の状態のクラウドを床に押さえつけ、そのまま容赦もなく尻に指を突っ込んだ。
「泣けよ。助けてくれって泣き叫べ。…そんで、後悔すればいい。自分たちがしたことをな。」
痛みで気を失いそう――いや、いっそこのまま気を失えた方が楽かもしれない。
けれど意識を手放すことは出来なくて、ただクラウドには受け入れることしか許されなかった。
痛みと、虐げられるだろう行為と、そしてその先に待つ…死を。
尻に、何かを宛がわれた。
それがいったい何か、以前はわからなかったけど、今のクラウドにはわかってしまう。
だってこれはザックスと初めて会った時と同じ、
「―――ごめんね、ザックス…」
どうしてザックスに謝罪したのか。…理由はこれだと、はっきりとは言えない。
人間が何か許されないようなことを彼にしたこと。
あれだけ大切にしてもらったのに、他の男に汚されてしまうこと。
お粥を食べさせてあげられなかったし、そのうえ床まで汚してしまったこと。
…寂しがりやな彼を、抱き締めてあげられないこと。
メリ…と。男の切っ先が、クラウドの閉じられたままの後肛に食い込もうとしたそのとき、
「クラウド!!!」
城中に反響するほどの声で、名を呼ばれた。それは間違えるはずもない、彼の――
「ざ…、」
「え?ザックス?!」
男の手から解放された体は、床へと力なく崩れ落ちる。
「クラウド!おい、まさか…クラ!う、嘘だろ?!」
泣きそうなザックスの声。
髪に触れるザックスの大きな手。
床に突っ伏しながら、どうしようもなく安堵して――
痛みや冷たさすら一瞬忘れて、小さく彼に微笑んだ。
「レノ、てめえ…っ!!クラウドに何しやがった!」
「……えっと、いや、俺は…」
クラウドのうつ伏せに倒れこんでいる体を起こそうと、肩に触れたとき、
「うあぁああっ!!」
その痛みにクラウドが思わず悲鳴を上げると、ザックスは慌てて手を離した。
そうしてそのまま、「レノ」と呼ばれた男に掴み掛る。
「レノ!てめえがやったのか!こいつ、骨が砕けてんじゃねえか…っ!」
「…俺がやったけど。こいつは一体…いや、悪かった。てっきり俺は、賞金稼ぎか教会の連中だと
思って…」
「ざけんな!!無抵抗のやつによくも、」
「いや、落ち着け、それは後でいくらでも謝る。その前にそいつ、」
「え、」
「そいつ、放っとくと死んじまうぞ。」
ザックスは正気に戻ったかのようにレノの体を放し、クラウドに駆け寄る。
「クラ、待ってろ!今マテリア持ってくるから!すぐだからな?!」
ザックスが地下へと続く階段を下りかけたそのとき、思わずクラウドは叫んだ。
「やだ…ザックスッ!」
「え…?」
「行か、ないで…お願い、」
「大丈夫、すぐ戻るよ。オマエの部屋にマテリア置いたままだから、」
クラウドは首を振る。
一人にされるのが心細かったわけじゃなく、ただ、彼に。
骨が砕けた方の手は動かないが、火傷した方の手であればかろうじて力を入れることが出来た。
「クラ…?」
「お願い、このまま…ぎゅって、させて。」
彼の服をつかむと、そのまま彼を引き寄せる。
火傷した皮膚が擦れて、酷い痛みだ、だけど。
「一生、放してやんない、って…決めたんだ。」
力いっぱい、片手で彼を抱き締めた。
ザックスは抱きしめ返してはくれない。おそらく、怪我のことを案じているのだろう。
しばらくの間固まっていたけれど、やがて小さく体を震わせ始めた。
…また、泣かせてしまったらしい。
「あー、よくわかんないけど。このままじゃ俺、とんでもない悪者なんだぞと!」
赤毛の男の、場にそぐわないような呑気な声。
それと同時に、緑色の淡い光がクラウドを包み込む。
「――ケアルガ、だぞと。」
以前ザックスの使った「リジェネ」に比べて、なんだか軽快で弾むような光だ。
魔法は使う術者によって、微妙に形を変えていくのだと本で読んだことがある。
「レノ…おまえ、ケアルガ使えんのか。」
ザックスはクラウドを腕の中に抱いたまま、まだ涙声だった。
クラウドの怪我は、みるみるうちに癒されていく。
痛みだけでなく、左手の赤くただれたその皮膚まで美しく再生されていくのだ。
「言っておくけど、俺はお前と違って回復系は苦手なんだぞと!これ使うとしばらく体がだるいし、
夜も勃たなくなっちゃうんだからな…覚えておけよ、と。」
「レノ、さん…ありがとう…」
心地よい光に包まれていると、なんだか眠気が襲ってくる。
ザックスの腕の中にいることで安堵したのか、体がより回復を早めようと無意識に働いているからか。
「くっそ、可愛いんだぞ、と。」
恨めしそうな舌打ち、それが少し可笑しかった。
いつだったか全く同じ台詞を、クラウドは聞いたことがあったから。
「…それで?」
「だから!お前を殺しにきたんだと思って、俺は良かれと思ってだなぁ…」
「クラウドの服は、なんで破れてた。」
「だってすっげえ美人だし、ただ殺すんじゃなくて一発ヤろうかと…って、いや、これは未遂だから!」
「てめえのイチモツ、出てたじゃねえか。」
「いやいやいや、マジで挿れてないぞと!ほんのちょ〜っと、尻の入口にだな…って、
マジで悪かったって!」
「それに、クラの粥。」
「鍋ぶちまけたのもスマン!でもさ、ほら。お前の風邪も、俺のリジェネでだいぶ良くなっただろ?
粥より魔法だろ、風邪に効くのはさぁ〜」
「クラの手料理が一番効くに決まってる。」
「なに?!そのお前の恋患いは?!どうしちゃったの?!」
煩いぐらいの二人の話し声で、目が覚めた。
目を開けてもそこはやっぱり暗闇――
けれど部屋の隅に鈍く光るランプで、ここは自分の部屋だとわかる。
ランプのすぐ近くに腰かけた赤毛の男、彼の表情が見える。
男は先ほど見たときとは違って、剽軽でよく笑う男だった。
コーヒーカップに口をつけながら、「ごめんごめん」と軽い調子で謝っている。
男が話している相手は、
「…ザックス。」
さっきからずっと、繰り返し髪を撫でてくれている手。
ランプの光は届かなくとも、その優しい手の力で誰かなどわかってしまう。
「クラウド、気付いたか?恐い思いさせてごめんな。痛いとこないか?こいつ、昔の仲間でさ…
オマエを敵だと勘違いしてこんな酷いこと…って、前に俺も同じようなことしたけど、」
「クラウド、って言ったか。マジで悪かったんだぞと。まさかザックスが人間と暮らしてるなんて、
思わなくてだな。怪我はどうだ?完全に治したはずだけど、もしまだ痛いとこあったら、」
二人に同時に謝られ、クラウドはなんと返したらいいかわからない。
ザックスが悪いわけがないし、レノを責める気にもなれなかったのだ。
ザックスもレノも、人を恨んでいる。
けれどそんな恨むべき人の子である自分に、優しい魔法をかけてくれた。
あの光に触れたから、クラウドにはわかるのだ。彼らがどんな心を持っているか――
「…俺が、勝手に転んだだけだから。レノさんは悪くないよ。」
だからレノを責めないでくれと。
そう言ってベッドから体を起こすと、ザックスの腕がクラウドの背中を優しく支えた。
両腕はもう普通に動くし、痛みもないようだ。
「…オマエ、お人好しすぎるだろ。」
そういうとこに惚れてんだけど、と。そう言って彼の両腕によって包み込まれた。
お人よし、それはきっと、ザックスの方――
初めてこの城で出逢った時、彼に階段から投げ飛ばされた。
今思えば。あのとき、彼はクラウドに、情けをかけたのだ。
『こちら側にくるな』と。
その忠告を無視して、こちら側≠ノくることを選んだのは、他でもないクラウド自身だ。
野獣に囚われているのではない。
囚われていたいのだ。彼を、囚えていたいのだ。
どちらからというわけでなく、自然と唇を重ね合う。
手探りで相手に触れ、闇に紛れて。何度も何度も、求め合った。
繰り返されるレノの言い訳だとか謝罪だとか、それらを聞きながら――
しまいにはレノが呆れた声で批難するまで、ずっと。
「おまえらなぁ…いつまでやってんだ!
いくら見えなくたって、ピンク色のオーラ全開でバレバレなんだぞと!」
愛しい、俺の野獣――
業火に焼かれた魔女が最期に「笑った」のは
彼女が 魔女 だからじゃない。
いっそ死んで楽になりたいと
そう願ったのだとしたら
それこそ人間の証明だったのに。